Masuk「私が呼びました。だから……入ってください」
だから、という言葉のあとが続かなかった。 車椅子の影が、玄関の床へ静かに落ちた。 玄関へ足を踏み入れると、床の木が小さく鳴った。三年前に出ていった時と同じ音だった。濡れた靴下の感触はない。怒鳴り声もない。けれど体の奥だけが先に覚えていて、息の吸い方が少しずれる。 律は何も言わなかった。 車椅子の車輪が、玄関マットの端を越える音だけが背中の少し後ろにある。「書庫はこちらです」 琴美さんは廊下の奥へ歩き出した。 足取りが危うい。高瀬さんが手を出しかけ、すぐに止めた。私も同じだった。 この人は、支えられたら崩れる。 そう分かってしまうくらい、肩が細く見えた。 旧書庫は、客間のさらに奥にあった。普段は使われていない部屋だ。木の扉には小さな真鍮の札がついていて、そこだけ古い旅館の物置みたいに見える。 その手前の勝手口に、紺色の作業着を着た男が二人立っていた。足元には台車がある「共有の居住空間に置かれており、琴美様が確認を希望されるのであれば、開封時の状態を記録した上で確認します。持ち出しについては別途確認します」 隆一は返事をせず、抱えていた箱を床へ下ろした。「……ここで確認します」 琴美さんは書庫の脇に置かれていた裁ちばさみを手に取った。 段ボールと古紙の湿った匂いが、鼻の奥に残った。 手が震えている。 見ていられず、私が言った。「無理なら、私が」「いいえ」 琴美さんは首を振った。「私が、見なきゃいけないの」 小さな刃が、ビニール紐に当たる。 ぱちん、と乾いた音がした。 その音で、隆一の顔から何かが抜けた。 父でも、経営者でもない。 隠していた人の顔だった。 箱の蓋が開く。 中には、茶色い封筒と、古いファイルが重なっていた。湿気を吸った紙の匂いが、ゆっくり廊下へ広がる。病院の匂いではない。長い間、誰にも開かれなかった場所の匂いだった。 高瀬さんが手袋を出す。「直接触れないでください」 琴美さんが頷く。 私は手袋を受け取った。薄い素材が指に張りつく。指先の感覚だけが遠くなる。 一番上の封筒には、黒い文字で日付が書かれていた。 二十四年前の六月。 その下に、白桐産院、葛城静司、如月隆一の名前。 封筒に並んだ三つの名前を、順に読み直した。 高瀬さんが、淡々と読み上げる。「白桐産院関連資料。写し。封筒表面に、葛城静司氏、如月隆一氏の記載あり。開封します」 封筒の端には、何度か開けた跡があった。誰かが以前にも中を見ている。 隆一の視線が封筒から外れない。見ているのに、読んでいない顔だった。紙の中身ではなく、その紙がまだ存在していること自体に負けた顔。 琴美さんが、小さく息を吸った。泣く前の音ではない。何かを知ってしまう直前、人が自分の体を支えるために吸う息だった。 誰かが、何年か前にもこの中を見ている。そう思った瞬間、隆一の視線が封筒の端から動か
「お前は黙っていろ」 隆一の声が低くなる。 その瞬間、琴美さんの指がカーディガンの前を強く握った。 箱を縛るビニール紐が、隆一の腕に食い込んでいた。 私は一歩前へ出た。「その箱を、どこへ持ってくんですか」「お前には関係ない」「白桐産院の記録なら、関係があります」 言った瞬間、隆一の目が細くなった。 その一瞬の反応を、見逃さなかった。 やはり知っている。 この人は、何が入っているのかを知った上で、焼こうとしている。 高瀬さんが私の横へ並んだ。手には小型の録画端末がある。ただし、いきなり顔へ向けたりはしない。床と箱と、全員の位置関係が入る角度で止めている。「高瀬と申します。本日この場にある書類について、朝霧様の出生および如月家との関係に関わる可能性があるため、証拠保全を要請します」「弁護士ごっこか」「私は弁護士です」 高瀬さんの返しは、短かった。 隆一の頬がかすかに動く。「ここは私の家だ。私物をどう処分しようが、他人に指図される筋合いはない」「処分の可否を物理的に止める権限は、現時点じゃありません。ただし、係争または係争が見込まれる事項に関する証拠を、通知後に破棄した事実は記録されます」「脅しか」「説明です」 作業員の一人が、台車の取っ手から手を離した。金属が小さく鳴った。 誰も笑わなかった。 作業員たちは視線を伏せた。 律は少し後ろで黙ったままだった。車椅子の肘掛けに置かれた手も動かない。「お父様」 琴美さんが、消えそうな声で言った。 隆一は振り向かない。「その箱、中を確認させてください」「お前には関係ないと言っただろう」「私にもあります」 琴美さんの声は、今度は消えなかった。「この家で、二十四年……私も、母親だったんです」 隆一の口が閉じた。 その沈黙の中で、箱を縛る紐が指に食い込んでいるのが見えた。隆一の手の甲に血管が
「私が呼びました。だから……入ってください」 だから、という言葉のあとが続かなかった。 車椅子の影が、玄関の床へ静かに落ちた。 玄関へ足を踏み入れると、床の木が小さく鳴った。三年前に出ていった時と同じ音だった。濡れた靴下の感触はない。怒鳴り声もない。けれど体の奥だけが先に覚えていて、息の吸い方が少しずれる。 律は何も言わなかった。 車椅子の車輪が、玄関マットの端を越える音だけが背中の少し後ろにある。「書庫はこちらです」 琴美さんは廊下の奥へ歩き出した。 足取りが危うい。高瀬さんが手を出しかけ、すぐに止めた。私も同じだった。 この人は、支えられたら崩れる。 そう分かってしまうくらい、肩が細く見えた。 旧書庫は、客間のさらに奥にあった。普段は使われていない部屋だ。木の扉には小さな真鍮の札がついていて、そこだけ古い旅館の物置みたいに見える。 その手前の勝手口に、紺色の作業着を着た男が二人立っていた。足元には台車がある。家庭ごみの回収に来た人の軽さではない。腕章には、産業廃棄物処理業者の社名が印字されていた。 一人が、こちらを見て困ったように帽子を押さえる。「如月様から、機密書類の溶解処理と伺っておりますが」 高瀬さんが、すぐに前へ出た。「搬出前ですね」「まだ積み込みはしていません。ただ、処分依頼書には署名が」 男はクリップボードを抱え直した。そこに挟まれた伝票の一番上に、如月隆一の名前が見えた。処分品目には、旧資料、医療関連記録、外部支援資料とある。 医療関連記録。「医療関連記録」の文字で、足が止まりかけた。「現時点で、依頼主と居住者の間に確認事項が生じています」 高瀬さんの声は、業者に向ける時だけ少し柔らかかった。「搬出は一旦保留できますか。必要であれば、保留要請を文書でお渡しします。御社には紛争の当事者になっていただく必要はありません」 男たちは顔を見合わせた。巻き込まれたくない、という気配が露骨に出る。「……本
本家へ向かう車の中で、誰も大きな声を出さなかった。 街灯の光が、走る車内を一定の間隔で横切った。 高瀬さんは助手席で通話を二本入れた。ひとつは榊家の法務部へ。もうひとつは、廃棄物処理業者の登録番号を調べるための確認だった。名前を出さず、事実だけを短く並べる声は、湿った夜の中でも少しも揺れない。「朝霧様」 通話を終えた高瀬さんが、振り返らずに言った。「先に確認します。私たちは、如月家の書庫に強制的に入ることはできません」「続けてください。ここは手順を外したくありません」「琴美様が立ち会いを認めるなら、共有部分の物品確認はできます。ただ、会社書類や第三者の個人情報が混じる可能性があります」「現場では、まず箱と周囲の状態を確認します」「触る前に撮影、開ける前に状態確認。持ち出すなら、所有者か管理権限のある方の同意を取ります」「同意がなければ」「その場で保全要請を出します。廃棄された場合は、廃棄の事実も含めて記録します」 淡々としている。 その淡々とした言い方が、今はありがたかった。 高瀬さんの声を聞いていると、膝の上の指が少しずつほどけた。 膝の上でスマートフォンを握っていると、画面がもう一度震えた。 琴美さんからだった。『門は開けておきます』 短いメッセージ。 その下に、少し遅れてもう一通。『ごめんなさい』 画面の明かりが、親指の爪だけ白く照らしていた。 通知音はもう鳴らなかった。車の振動だけが指に残った。 謝罪の文字は、夜の画面の中で白く浮いていた。 入力欄を開いたが、何も打てなかった。親指を戻し、画面を伏せた。 黒い画面に、街灯だけが一度流れた。 車が如月本家の塀に沿って速度を落とす。門灯は点いていた。昔、夜会のあとに帰ってくると、同じ明かりが玄関までの石畳を照らしていた。あの頃は、それを家の明かりだと思っていた。 今は、逃げ道を照らす灯りに見えた。 門は本当に開いていた。 車を降りると、湿った土の匂いがした。雨はま
「危ないと思ったら止めてください。帰るかどうかは、その時考えます」 廊下の向こうで、エレベーターが開く音がした。「分かりました」「帰る車だけは残してください」「それは用意します」 ようやく、ドアノブから手を離した。 会議室へ戻ると、葛城はまだ席にいた。 高瀬さんは資料の撮影を終え、受領書の控えを二部に分けている。 私は席に戻り、机の上の二枚の紙を見た。 二人の赤ん坊。 ひとりは、名前をもらえなかった。 ひとりは、名前を奪われたかもしれない。 どちらが私なのか。 まだ、分からない。 分からないまま、私は生きてきた。「如月家側の控えは、どこにあると思いますか」 私が聞くと、葛城は目を細めた。「本家の旧書庫。もしくは、如月グループの総務保管庫です。二十四年前の外部支援資料と一緒に綴じられている可能性がある」「外部支援資料」 高瀬さんが反応した。 葛城は、そこで口を閉じた。 まただ。 知っているのに、全部は渡さない顔。「金銭の記録がありますね」 私が言うと、葛城の指が止まった。 律の視線が、葛城へ向く。「今ここで言えることは限られます」「言えないなら、結構です」 私は紙から目を上げた。「自分で確認します」 葛城は、何かを言いかけてやめた。 その時だった。 私のスマートフォンが震えた。 表示された名前を見て、すぐには通話ボタンを押せなかった。 如月琴美。 出るべきか、一瞬迷った。 けれど、今その名前から逃げれば、また誰かが勝手に話を進めるように思えた。「出ます」 短く告げて、通話ボタンを押す。 向こう側から、すぐには声がしなかった。 衣擦れの音と、浅い呼吸だけが聞こえる。「……栞さん」 琴美さんの声は、ひどく小さかった。 泣いているのか
金属製のドアノブに触れると、冷たかった。 背後から近づく車椅子の音が、廊下に低く響いた。 その冷たさで、少しだけ息が戻る。 追いかけてくる音がした。 振り返らなくても分かった。「榊さん」「ここで止まります」 低い声が、少し離れた場所で止まった。 本当に、止まった。 私はドアノブから手を離せなかった。「今は、何も言わない方がいいですか」「慰めは、たぶん聞けません」「慰めはしません。ただ、一つだけ訂正させてください」 律の声は静かだった。「……一つだけ。あなたがやったことじゃありません」 口の中が熱くなる。「そんなこと、頭では分かってます」「分かっていても、そう思えないんですね」「でも、琴美さんが私を抱いた時、本当は、その子を抱きたかったんだとしたら」 言葉が途切れた。 ドアノブに映る自分の指が、白くなっている。「私が、あの家で笑ってた時間は」 続きは出なかった。 律はしばらく黙っていた。 すぐに否定してくれれば、楽だったかもしれない。 違います、あなたは悪くありません、と、きれいな声で言ってくれれば、私はそれに怒れた。 けれど律は、少し時間を置いてから言った。「……笑ってたことまで、あの人たちのものにしなくていいんじゃないですか」 その言葉に、ドアノブを握る手が緩んだ。「……そんなふうに言われると、何を返せばいいか分かりません」「……返事は、いりません」 しばらく、ドアの向こうの階段を見た。 詰まっていたものが、少しだけほどけた。 私はドアに額を近づけた。触れる寸前で止める。「私、嫌なんです」 律は問い返さず、私が続きを口にするまで待った。「琴美さんを、かわいそうだと思ってしまうこと」 言ったあと、ドアノブを握り直
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし